明治大学体育会フェンシング部の歴史
2)戦後、そして東京オリンピック
終戦を迎え、フェンシング界の再起を計ったのは三上哲夫で、連合国最高司令部
体育局グラハム少佐の許可を得るや直ちに二瓶俊彦、平沼五郎、牧真一、佐野雅之
進藤誠、池内一郎、福田裕(明大)、鍋島直浩の各氏に協力を願い日本フェンシン
グ協会として再発足した。会長に森村義行、副会長に二瓶、森寅雄、松葉徳三郎の
各氏、
理事長に三上哲夫が就任した。
これと時を同じくして、三上をはじめ、諸先輩のご助力により、田嶋正實、
永松
克敏を中心として、わが部も再発足した。その頃アメリカで活躍された森寅雄氏が
技術指導にあたられ、フェンシング界の向上は著しかった。昭和23年にいたると、
わが部の第一次黄金時代が到来した。土屋武、中嶋英一、飯田雄久、奈良泰夫らが
特に中興の四闘士と云われ、連戦連勝の記録を作り、その他高田、内山、山崎の力
強い協力を得ていよいよわが部の実力を偉大なものとした。この黄金時代を更に好
調の波に乗せたのが高野、遠藤、笹川、石川、鈴木(正)、森本、富田(典)。次
いで秋元、小林(政)、金子(正)、粕谷、三間、折原らで、技術の面でも、部員
の数の点でも、他大学の追随を許さなかった時代(昭和26〜27年)であった。
その後数多くの優秀なフェンサーが一度に卒業したが、後を継いだ三谷直二郎は
文字通り孤軍奮闘した。また、若旅、小原の時代は後進の育成に重点をおき、次の
千葉卓郎の時代に全てをかけた。彼は恵まれた部友の小林(英)、川村、坂本、山
口(重)、富田(浩)、横溝で明大フェンシング部を遂に確固たるものとした。
1955年、昭和30年、OB待望の駿台フエンシングクラブが誕生した。会長に三
上をおき、益々発展を続け、明大フェンシングの基盤を完璧と成した。
昭和31年に至り太田、阿部、山本,左野、仁木,伊東(正)、木村幸三と多数の
選手を送り出した。わが部の「フェンシンブ小唄」が木村の作詞作曲で生まれ全国
のフェンサーに評判となった。次いで 綿貫,山口(直)、湯本、楢本、手島(祥)
松井、加藤満子 更に鈴木(新)、望月、畠田、高山、佐川、森田の新進気鋭のフ
ェンサーが育った。監督も土屋から小林(政)、飯田とバトンタッチされ、それぞ
れ明治の伝統の中に世界のフェンシング技術を採り入れ意欲的な指導方針を明らか
にした。一方伊藤(義)、奥田、池内から磯貝、井磧、原、小幡、太田(光)、古
谷、菊地宏子等へと至り、再び黄金時代を築くべく昭和37年に新喜、石田、宮原、
大石の活躍が始まった。
飯田監督の5ヵ年計画のもとに、昭和38年種村は朋友手島、伊藤(次)、鈴木(吉)、
鏑木、佐藤(千)、堀部英代等の協力を得て、後進を徹底的な技術及び精神的指導
を打ち込んだ。続く古田(武)、渋谷、堀もこれを引き継ぎ基礎を固めた。その年
は東京オリンピックが開催され、フェンシング界も隆盛を極め。日本チームの監督
はOB飯田雄久が率い、コーチにOB千葉卓郎が選ばれ、エペで手島猛が最終予選に
勝ち抜き見事日本代表になった。新喜昭は世界的にも高いレベルのフルーレ種目で
最終予選までいったが怪我のため選ばれなかった。